人が突然死ぬということについて、また最近よく考える。
ここ最近の病棟は、入退院を繰り返してきた患者さんが亡くなることが続いていて、その患者さんたちとは結構仲良くしてきたのでとても悲しく感じている。
入退院を繰り返すということは少しずつ悪くなっていて死へ向かっている過程だということを、今年の春にほとんど寝ていた退院支援の研修で聞いて、当たり前だけどそうだなと思ったのを いまいまになり実感している。悪くなっていっているけど、少しでも家に戻れる時間を作れるように支援することが大切だと。病院で亡くなる人は多いが、最後を自宅で迎えたいと希望する人も同様に多く存在している。わたしだって病院で死にたくない。でも結果的に少しでも長く生きるための治療を行うのなら最後は病院になってしまう。
亡くなったひとたちはそれで良かったのか、わたしには判断が付けられない。当の本人たちは話すことも出来ないほど病状が悪くなり意識を失って、そのまま眠るのと何も変わらない というように心臓を止めてしまったので。まさかこんなに早く悪くなるなんて、わたしの考えが甘かったのか、神様の気まぐれか。運命か。病気と一緒に生きると言うことは、いつかその日がくるということなのではあるがまだ大丈夫だってきっと家族も思っていただろうに。
そうして、また冬になるとどうも血管がブチ切れたり詰まったりする人が増えてくる。それこそこれが本当の突然の死なのだけど、本当に寝る前まで普通に話していたのにそのあとトイレに起きてぶっ倒れた、みたいな話は珍しくなく、毎日のように救急車で患者さんは運ばれてくる。自分の周りが健康に生きてる人だらけなのが不思議なくらい、人間たちがバタバタ倒れて病院に来ているという事実。健康な方がおかしいんじゃないかとさえ思えてくる。
わたしは自分がやった正しいと思うことは褒めてほしいと思う人間なので、書きますけども、お店で人が急に倒れたときに先輩と一緒に少しだけ手助けをしました。でも病院内じゃないとどうしたらいのか、はっきり言って分からなかった。初めて行った場所だったし、お酒飲んでたし余計に。じゃあもしそれが道端だったらもっと分からなかったと思うし、更には一人でいたら勇気を持って蘇生にとりかかれるだろうか と考えて怖くなった。蘇生方法を知っているのに。わたしはその程度の人間なんだな。白衣を脱いだらしょうもない人間で、本気で吐きそうなくらいに自分が嫌になって、ちょっと泣いた。お店では倒れた人の近くにいた人達は席から立つこともなく、ただ黙って見つめていた。なんと冷たい視線だろうか。お前らもいつ死んでもおかしくないというのに。でもわたしだって一人でいたらきっとそうなんだ、どうして。どうして、こんな自分がとてもきらいだよ。
ふと夏に転職活動していたある日のことを思い出す。駅前で立って時間を潰していたら、救急車が目の前に来て路地に入ろうとしているところを遠慮なく歩いていく人たちの多いこと。救急車の動きを妨げる、その意味を彼らは分かっているのか?車両進入禁止の標識が立っていた。救急車はさらにその奥へ進む必要があったようなので、わたしはその重い標識を持ち上げて道をあけた。ほかにも立っていた人はいたし、その間も救急車の前を歩いていく人たちがいた。わたしだけだった、あの瞬間に救急車を通らせようとしていたのは。お前らの人生に関係の無い人は死んでもいいということなのか。急に怒りが湧いてきて、だけど今のわたしも同じじゃんとおもって涙がぽろぽろこぼれてくる。
もし、自分と一緒にいる人が倒れたらどうする?わたしは一般的な蘇生方法を知っているけど、きっと怖くて泣いてしまってまともにできないよ。他の人に声をかけてもらって助けてもらいたい。だから、わたしがまずはそうならなくちゃいけないって思った。野次馬根性で他人の死に無関心な人間たちと同じでいたくない。だってさ、自分の知らない人にだって大切な家族や友人がいて、その人の生活があって、その人が支えているものがあって、その人の人生は他人には測りえないものなんだよ。自分と関係ないからどうでもいいって、じゃああなたの家族がどこかで倒れた時にみんなが何もしてくれなかったら 許せるの?って話。顔も覚えてない他人への怒りは、自分に対しての怒りで、八つ当たりで、わたしは本当にどうしようもないと思う。
突然死ぬって意外と当たり前にそこらじゅうで起こっていることをもっと知ってもらいたい。今日生きていたことは、実はすごいって。毎日救急車は病院にきているって。病院から患者さんがいなくなることはないって。だから蘇生しなくていいからせめて救急車の前を平気で歩いたり、倒れた人を黙って冷たい目で見つめたり、そんなことはもうやめてください。お願いします。
わたしが急性期看護を一旦やめて緩和ケアに行く理由の一つに、突然死は防げなくて自分の無力感がとてつもなく強いことがある。人は必ず死ぬ。だからせめて死ぬとわかっている人の最後の痛みをとって願いを叶える手伝いをしたいと思った。はじめての自分の病棟で行った緩和ケアは上手にできなくて、後悔ばかりでしばらく泣いてばかりいた。そういう時でさえ悲しんでいたのは病棟で自分だけだった。もっとちゃんと緩和ケアしたいって思ったから、そっちに行くけど、でもある意味急性期からの逃げでもある。突然死に耐えられない自分。すべての出来事を真摯に受け止めて対処しようとしても無理なのは分かっているけど。
また急性期で命と向き合いたいと思う時が来るだろうか。それはまだ分からないけど、でもきっとわたしはどんな形でもだれかの人生の命と付き合い続けるんだなと思う。もうこれは呪いだね。前世でどんだけ悪いことをしたんだろう、たくさん人を殺したのかな。
今日もわたしの好きな人たちが生きていたことがうれしくって愛おしくて、神様がもしもいるのなら本当にありがとうとおもう。そうやってずっと生きられないことをいつも目の当たりにさせられているから、そのいつかに怯えながら、でも、だからちゃんと大切にして生きたいと思います。
時間も、生きてることも、今当たり前にできてることも、全部有限なんだとちゃんと分かっていても普通にしていたら忘れちゃうし、わたしはわたしを大切にしてくれる人達にそういうことを甘えてしまっていると思う。連絡するとか、ちゃんと言葉にするとか、わたしは苦手なので。そういうことは大切な時がきたらでいいと思っている。大切な時っていつ?わたしはみんなからもらってばかりいる。こんなチラシの裏みたいなインターネットの掃き溜めにどれほど自分の気持ちを書いたって、わたしの好きな人たちには1ミリだって伝わらないのにね。
いつかわたしたちの有限がおわる日がくる。それは宣告されてからかもしれないし、突然かもしれない。病気じゃなくたって交通事故や頭のおかしな人に巻き込まれたり、そういうことはテレビのニュースから飛び出して自分に降りかかるかもしれない。明日が無いかもなんて思うから今が輝くとしても、怖いね。もう家から出るのやめてずっと一緒にいよう、そうしよう。
終わりがないこの話。呪われている。でも生きててよかった。