明日が来なければいいのに

今君に素晴らしい世界が見えますか

とうとう僕らの順番がやってきた

 

人が突然死ぬということについて、また最近よく考える。

 

ここ最近の病棟は、入退院を繰り返してきた患者さんが亡くなることが続いていて、その患者さんたちとは結構仲良くしてきたのでとても悲しく感じている。

入退院を繰り返すということは少しずつ悪くなっていて死へ向かっている過程だということを、今年の春にほとんど寝ていた退院支援の研修で聞いて、当たり前だけどそうだなと思ったのを いまいまになり実感している。悪くなっていっているけど、少しでも家に戻れる時間を作れるように支援することが大切だと。病院で亡くなる人は多いが、最後を自宅で迎えたいと希望する人も同様に多く存在している。わたしだって病院で死にたくない。でも結果的に少しでも長く生きるための治療を行うのなら最後は病院になってしまう。

亡くなったひとたちはそれで良かったのか、わたしには判断が付けられない。当の本人たちは話すことも出来ないほど病状が悪くなり意識を失って、そのまま眠るのと何も変わらない というように心臓を止めてしまったので。まさかこんなに早く悪くなるなんて、わたしの考えが甘かったのか、神様の気まぐれか。運命か。病気と一緒に生きると言うことは、いつかその日がくるということなのではあるがまだ大丈夫だってきっと家族も思っていただろうに。

 

そうして、また冬になるとどうも血管がブチ切れたり詰まったりする人が増えてくる。それこそこれが本当の突然の死なのだけど、本当に寝る前まで普通に話していたのにそのあとトイレに起きてぶっ倒れた、みたいな話は珍しくなく、毎日のように救急車で患者さんは運ばれてくる。自分の周りが健康に生きてる人だらけなのが不思議なくらい、人間たちがバタバタ倒れて病院に来ているという事実。健康な方がおかしいんじゃないかとさえ思えてくる。

わたしは自分がやった正しいと思うことは褒めてほしいと思う人間なので、書きますけども、お店で人が急に倒れたときに先輩と一緒に少しだけ手助けをしました。でも病院内じゃないとどうしたらいのか、はっきり言って分からなかった。初めて行った場所だったし、お酒飲んでたし余計に。じゃあもしそれが道端だったらもっと分からなかったと思うし、更には一人でいたら勇気を持って蘇生にとりかかれるだろうか と考えて怖くなった。蘇生方法を知っているのに。わたしはその程度の人間なんだな。白衣を脱いだらしょうもない人間で、本気で吐きそうなくらいに自分が嫌になって、ちょっと泣いた。お店では倒れた人の近くにいた人達は席から立つこともなく、ただ黙って見つめていた。なんと冷たい視線だろうか。お前らもいつ死んでもおかしくないというのに。でもわたしだって一人でいたらきっとそうなんだ、どうして。どうして、こんな自分がとてもきらいだよ。

ふと夏に転職活動していたある日のことを思い出す。駅前で立って時間を潰していたら、救急車が目の前に来て路地に入ろうとしているところを遠慮なく歩いていく人たちの多いこと。救急車の動きを妨げる、その意味を彼らは分かっているのか?車両進入禁止の標識が立っていた。救急車はさらにその奥へ進む必要があったようなので、わたしはその重い標識を持ち上げて道をあけた。ほかにも立っていた人はいたし、その間も救急車の前を歩いていく人たちがいた。わたしだけだった、あの瞬間に救急車を通らせようとしていたのは。お前らの人生に関係の無い人は死んでもいいということなのか。急に怒りが湧いてきて、だけど今のわたしも同じじゃんとおもって涙がぽろぽろこぼれてくる。

もし、自分と一緒にいる人が倒れたらどうする?わたしは一般的な蘇生方法を知っているけど、きっと怖くて泣いてしまってまともにできないよ。他の人に声をかけてもらって助けてもらいたい。だから、わたしがまずはそうならなくちゃいけないって思った。野次馬根性で他人の死に無関心な人間たちと同じでいたくない。だってさ、自分の知らない人にだって大切な家族や友人がいて、その人の生活があって、その人が支えているものがあって、その人の人生は他人には測りえないものなんだよ。自分と関係ないからどうでもいいって、じゃああなたの家族がどこかで倒れた時にみんなが何もしてくれなかったら 許せるの?って話。顔も覚えてない他人への怒りは、自分に対しての怒りで、八つ当たりで、わたしは本当にどうしようもないと思う。

突然死ぬって意外と当たり前にそこらじゅうで起こっていることをもっと知ってもらいたい。今日生きていたことは、実はすごいって。毎日救急車は病院にきているって。病院から患者さんがいなくなることはないって。だから蘇生しなくていいからせめて救急車の前を平気で歩いたり、倒れた人を黙って冷たい目で見つめたり、そんなことはもうやめてください。お願いします。

 

わたしが急性期看護を一旦やめて緩和ケアに行く理由の一つに、突然死は防げなくて自分の無力感がとてつもなく強いことがある。人は必ず死ぬ。だからせめて死ぬとわかっている人の最後の痛みをとって願いを叶える手伝いをしたいと思った。はじめての自分の病棟で行った緩和ケアは上手にできなくて、後悔ばかりでしばらく泣いてばかりいた。そういう時でさえ悲しんでいたのは病棟で自分だけだった。もっとちゃんと緩和ケアしたいって思ったから、そっちに行くけど、でもある意味急性期からの逃げでもある。突然死に耐えられない自分。すべての出来事を真摯に受け止めて対処しようとしても無理なのは分かっているけど。

また急性期で命と向き合いたいと思う時が来るだろうか。それはまだ分からないけど、でもきっとわたしはどんな形でもだれかの人生の命と付き合い続けるんだなと思う。もうこれは呪いだね。前世でどんだけ悪いことをしたんだろう、たくさん人を殺したのかな。

 

今日もわたしの好きな人たちが生きていたことがうれしくって愛おしくて、神様がもしもいるのなら本当にありがとうとおもう。そうやってずっと生きられないことをいつも目の当たりにさせられているから、そのいつかに怯えながら、でも、だからちゃんと大切にして生きたいと思います。

時間も、生きてることも、今当たり前にできてることも、全部有限なんだとちゃんと分かっていても普通にしていたら忘れちゃうし、わたしはわたしを大切にしてくれる人達にそういうことを甘えてしまっていると思う。連絡するとか、ちゃんと言葉にするとか、わたしは苦手なので。そういうことは大切な時がきたらでいいと思っている。大切な時っていつ?わたしはみんなからもらってばかりいる。こんなチラシの裏みたいなインターネットの掃き溜めにどれほど自分の気持ちを書いたって、わたしの好きな人たちには1ミリだって伝わらないのにね。

いつかわたしたちの有限がおわる日がくる。それは宣告されてからかもしれないし、突然かもしれない。病気じゃなくたって交通事故や頭のおかしな人に巻き込まれたり、そういうことはテレビのニュースから飛び出して自分に降りかかるかもしれない。明日が無いかもなんて思うから今が輝くとしても、怖いね。もう家から出るのやめてずっと一緒にいよう、そうしよう。

終わりがないこの話。呪われている。でも生きててよかった。

かみさまのなまえを僕らは今日知ってしまった

 

今日は職場で先輩にあたまを叩かれた。

 

そこだけ切り取るとめちゃくちゃな話になるから経緯を書くと、重症患者を受け持っていて慌ただしく過ごしている所に入院まで来たので、一緒に部屋持ちしてた先輩が全部フォローしてくれた。という流れで別の先輩に、コラー!って叩かれたんだけども。

しっかりしろという意味にしても叩かれる意味が分からないし、なんなら痛かったし。

 

親に叩かれたはことあるけど、そんなの言葉で理解できない子どもの頃の話であって大きくなってから叩かれたことなんてない。DVするような人と付き合ったこともないから、恋人にも叩かれたことがない。友達は穏やかだから、もちろんそんな事しない。

今日初めて分かったけど、ひとに叩かれると傷つく。

じぶんでいつもどこかにぶつけて出来た内出血の方が絶対痛いのに、でもしばらく叩かれたところがジンジンしてた。物理的な痛みではなさそうであった。どうして悲しいのか上手く言葉にできないけど、ただただ悲しく、そこに痛みは残っていた。

わたしはずっとずっと大切にしてもらっていたから、こういうことに上手く気持ちが追いつかないようだった。

 

なんだか突然、中学生のころに虐められていたことを思い出した。わたしが、というよりわたしがいたグループが虐められていたんだけど。

理不尽な痛みってこんな感じだっただろうか。もう10年近く前のことなので、こころはすっかり痛みを忘れてしまっていたようだ。

これは、たぶん間違えている持論なんだけど、痛みを知っている人は知らない人よりも他人を傷つけないってこと。辛かった中学生活のことのほとんどを忘れた。中学の頃のことを一緒に話す人がいないから、思い出すことも無いし。でも、痛みは忘れない方がきっといいだろう。今日思い出したよ。優しくなろうと強くなろうと思って生きてきたわけじゃないけど、そういうふうになってしまったのはあの頃があったからなんだと思う。自分がされて痛かったこと、辛かったこと、悲しかったこと、全部、他の人にはしないって。それがただしい優しさではないにしても、人を傷つけることは無いだろう。

わたしみたいじゃない人もいたから、だからこれは間違えている持論。されたことをやり返す人もいる。わたしは、みんなが優しくて傷つけ合わない世界になってほしいけどね。せめて視界に入る世界くらいはね。

だからさ、もう忘れないよ。わたしは誰のことも死ぬまで叩いたりしないよ。それはとても深く傷つくから。人を叩きたいと思ったことがないし、叩いたことないし、果たして今後叩きたくなることがあるのかも分からないけど。冗談であっても、悲しいということ。

 

その手は人を悲しませるために使ってはいけません。たいせつなひとや犬をぎゅっと抱きしめるために使ってね、人類。

美しく生きたいと思います。

 

気づけばもう11月。

今年は特に色々なことがあったけれど、紅葉した木々の葉が落ちているのを見たり、昼間でも冷たい空気に触れていると、平等に冬はやってくるのだなと厳しい気持ちになってきます。

2019年を振り返るには少し早いけれど、でも今年はすごく人生を変える1年になったと思います。自分の死生観と向き合ってこれからどのように働いていくのかを考えて、転職活動をしたというのはたぶん死ぬまで覚えているんだろうなあ。そして憧れだった東京を選んだということ。わたしの人生にとってはとても大きな出来事のように思う、案外とんとん拍子で話が進んだけれども。

もう何回も言ってきたように思うけれど、わたしは本当に周りの人に優しく育ててもらいました。育ててもらってるあいだは不満だらけだったけどね。 わたしがこういう人間になれたのは、両親、友達、優しく接してくれた大人たちのおかげなのでしょう。優しくなかった人間もたくさんいるし、そのせいで傷ついたこともたくさんあるけど、全部あわさって良い方になったからきっと運が良かったのかもしれない。

この間、久しぶりに宇宙の本を読んだ。

わけのわからないほど大きな宇宙空間にある小さな地球の中に生きていて、すったもんだやっているのがバカバカしいを通り越して怖いと思った。生きている理由とは…と、悪い癖が出て勝手に悲しくなって色んなことをぐるぐる考えたりした。

たまたま地球に生まれて、色々なことがあったけれど運良くこんな人間になったこと、それに意味をつけるとしたら、たまたまおなじ地球に生まれた人たちを幸せにすること。それくらいしか思いつきませんでした。意味というよりも、わたしがやるべきことという使命感、という表現の方がぴったりと当てはまるかもしれない。そもそも、次の仕事はそういう使命感の元に選んだことだ。わたしにしか出来ないことをやりたい、やるべきだ、と。

自分を買いかぶりすぎだな、と笑えてくる。わたしは立派な人間なんかでは無い。

どこかで読んだ話だけれど、「前世であまり良い事をしなかったから現世では人のために働いている」というものをずっと覚えている。わたしは幽霊も、輪廻転生も、信じていない。そんなものがあったら怖いから。本来なら一度の人生で挽回した方が良いとは思うけれど、前回の人生でどうしようもなくて、もし輪廻転生できたとしてそれを償える機会があるなら、それはそれでちょっと良いなと思ったんだ。もしかしたらわたしも前世はどうしようもなく悪い人間だったのかもしれない。立派な人間じゃないのは償ってるからなのかもしれない、なんてね。信じてるわけじゃないよ!

ひとを幸せにしたすぎて、1度だけ泣いたことがある。悲しいとか嬉しいとか、そういうことでもそれほど普段は泣かないのに。もしかしたら煙草の副流煙が目にしみて涙が出ただけかもしない。それは今まで書いてきた、全人類に対する使命感による幸せにしたいではなくて、たった一人の人間に対してわたしの我儘としての幸せにしてあげたい、です。そんなふうに思ったことがないから、自分にもそういう気持ちってあったんだ…と驚いた。

わたしのお母さんはよく、失敗してもいいから一度は結婚した方がいいよ、と言います。別に結婚したいとあまり思わないから聞き流してきたけれど、今ならちょっとだけ言いたいことが分かるような気がする。結婚=幸せとは一言では言えないけれど、そこに至る過程だとか、家族を持つということだとか。

ひとを幸せにするということはとても難しいように思う。

わたしは自分の気持ちをその場で整理して話すのが苦手だから、あんまり思っていることを瞬間的に口に出す事はしないけれど、生まれたてほやほやの赤ちゃんみたいな感情を拙い言葉でも伝えたいときだってある。だからわたしはその人に言いました、幸せにしたいって。もっと下手くそな日本語を使って何か言ったけど、結局のところ言いたいことは幸せにしたいというわたしの我儘で、誓いで、祈りのようなその気持ちが全てです。

幸せにしたいって心の底から思ってるよ。

ひとを幸せにするということはきっととても難しい、わたしにできるか分からない。方法もよく分からない。こんなに色んな人から大切に優しく育ててもらったのに、このザマです。全人類を愛おしく思い幸せを祈るまえに、たった一人のひとを幸せに出来ないでどうするんだと思います。

あとどのくらい生きて、あとどのくらい良いことをして徳を積んで、あとどのくらい祈れば、幸せにできるのだろう。

そう思うと、自分が地球に生まれた意味なんてどうだって良いような気さえしてくる。好きな人たちが生きている今日があることが幸福だと、推しの部屋の壁や床や天井になりたいオタクみたいなレベルのことを考えてしまうよ。わたしはとっくに幸せで、さらにはひとを幸せにしたいという贅沢なわがままを言うくらいには幸せなんだろうね。

好きな人たちが今日も生きてて本当によかった。まだ知らない人もどこかの誰かと楽しく笑って、健やかに眠る夜がちゃんと来て良かったね、と……意識してないとすーぐ博愛主義みたいなことを書き出してしまう…。全人類の幸せはわたしの力ではどうにもならなく、ただの部外者の祈りでしかない。本当にみんなが幸せでいてほしいとは思っているけど全てに関与はできないのが現実だ。だけど一人なら、わたしの力でどうにかできますか、神様。

幽霊はいないけど、神様はたぶんいる。神様がいてほしいと思う限り、ちゃんといる。

神様に幸せにしてもらうんじゃなくて、わたしが幸せにしたいっていうのはちょっと不遜かもしれないなって今思った。それでもわたしが幸せにしたいと思ってしまったので、神様許してください。

明日も明後日も、来月も、その先も、幸せにする方法を探すから生きていたい。一日でも多く幸せにしてあげたい。我儘ばっかり言ってる。

お腹すいてきたし眠くなってきた。もう一度眠ってもまた目が覚めてこの気持ちが消えませんように。

運命の人は3人いるんだって

 

って友達が言ってた。

3人って、それが恋愛に限る話だとしたら、1人は結ばれてあとの2人はどうなるの?その2人にもまた自分以外に別の2人がいて誰かを選ぶってこと?って今になってモヤモヤしてきた。

 

神様がいたらいいなって思うから、神社が好き。道の駅のスタンプみたいな軽い気持ちで神様のサイン(御朱印)集めてさ、お賽銭入れて長ーい長ーいお願いごとをして、今日もお守りを買った。

そしておみくじを引いたんだけど、なんていうか今の自分に当てはまらないなと思うと途端に興味がなくなるっていうか、当たってないよこれ!って急に思ったの。これからのことを占ってるんだから、今の話をしたってしょうがないのに、明日も明後日も、来月も、来年だっていま信じてるものがずっと変わらないって思い込んでるから、決めてることがある時はおみくじを引くのやめようかなって思っちゃった。そして今思ったけどおみくじの値段って消費税5%の頃から100〜200円で増税関係ないね。

何か占いする時は、自分が決めたことを後押ししてくれる答えを望んでいる。違うこと言われると落ち込む。間違えてないって確証がほしくても、人生は誰にもわからなくて、結果が出ても間違えたかどうかがハッキリ分からないことが山ほどある。じゃあ占いなんていらなくない?って話だし、だいたい人から何言われても自分の意見通してんだよみんな。そういうものなのだ。どうして正解(ほかの人の意見)を求めるのかというと、それはまだわたしの研究で明らかにはなっていないけど、たぶん、義務教育では答えがひとつしかないものばかり習ってきたからだと思う。こうあるべきだという答えをみんな探すくせがついてるんだね。それで問題解いたあとの答え合わせ的なノリ、そういうことにしておきました。とりあえず。

 

それで運命の人の話に戻るけど、運命の人ってなんだよって思いませんか?めちゃくちゃ疑問符出るよなぁ??

わたしさ、インターネットがない時代に生まれてたら終わってたよマジで。インターネットが無かったら、美味しいものも綺麗な景色も良い音楽も話が合う人を見つけるのも、限られていたということではないか。この辺にそんな良いものあると思う?びっくりするくらい何もないんだよ。幻滅することばかりだけど、ここ以外を知らないから ここで生きてここで死ぬしかないって思ってたはずだ。最悪な人生になるところだったわ、危な。ここより楽しい場所があるから出ていこって知ることが出来る時代でよかったな。

で、インターネットがなかったら、このへんのじじいの中からしょうもない運命の人を探してたわけ??って思うじゃん。あのなぁ運命の人とかかっこつけてるけど、人間はよく会う人を好きになるんだから出会った中から選んでんだよ運命もクソもあるかボケって。だから自分の行動範囲を広げて出会う人(分母)が増えたら、この辺の人よりも良い人がいるかもしれない。しかし分母が増えた分だけまた探すのも大変な話で、じゃあやっぱり数多の人間の中から見つけて仲良くなれるのだったら運命の人っていうのは言い過ぎでもないのだろうか。

 

今まで自分が好きになった人と上手くいったことはないけど 付き合いたいって思った人と付き合ったらすごく楽しいって、話してくれた。幸せそうでいいなと思った。

あるあるな話だけど、自分は好きじゃないけど 付き合おうって言われたから付き合ってみるっていうのは、結局のところ好きになれないで終わるのだ。わたしだけじゃなかった。最初に出会った時からきっと決まってるよねって話をした、たぶんそう。それで自分はこういう人が良くて、こういうのはダメだっていうのが色んな人といるとわかってくる。自分を好きになってくれた人を好きになれないことは悪いことではないけど、そうやって好きとか嫌いとかが分かるようになるまでに何人傷つけたのだろうか とも思う。

自分自身をすごく自分勝手だなと思うし、でも世の中の人たちってだいたいそんな感じのような気もするけど、友達が今幸せならそれでいいんじゃないかなって思うわけで全然相手の不幸を同情したことない。わたしの好きな友達が幸せになるほうをいつも選んでくれと思う。上手く言えないけど 誰かの不幸の上に幸せは成り立つのはもうしょうがないことで、誰かのなりたかったなにかにみんなそれぞれなっている。めちゃくちゃ冷たいよなあ、わたし。市内で1番優しい自信あったけど、そんなでもねえな優しくねえなって気づいた。結局じぶんの関係ある人の外側になんて普段は目が向かなくて、そっち側は部外者だから幸せも不幸せも知らね〜って話になる。みんなそういうもの?

去年のブログ読み返してたら、全員に大切な人がいて人生あるんだよな〜みたいなこと書いてた。そりゃそうだ。そういうの忘れがちだな。全人類に気を配るなんてできないけど、"自分の関心のある人に関わってる人"くらいまでのことは考えられる人間になりたいなって思った。自分が直接関わってないと他人のことなんてピントが合わないし、そこにピントを合わせて大事なところを疎かにしちゃ意味が無いから、ぼやけてても視界に入れておく くらいがいいのかなぁ。自分に何が出来るわけでもないけど。というか関係ない人間がなにかしようとする方が気持ち悪いから、やっぱこれでいいです。みんなそれぞれに関心のある人がいるんだからそこでやりくりしていくはずで、他人じゃなくてその人に何かをしてもらいたいって思うじゃん。だからわたしが自分を責める必要もなかったな。それでもやっぱり見てる場所が狭かったなとは反省するが。人間多すぎなんだな、それが悪い。そう。

 

夜中から書き始めて寝落ちして、2時間おきに中途覚醒してまだ書きたいことあったけどもう終わりにする。結局書いてて多少は意味が分かるが全体的にわからないブログなったな。運命の人が3人って結局なんなんだろうな。

ていうか最近ほんと中途覚醒多いし眠り浅いせいで夢ばかり見て疲れる、さっきもよくわからない夢見てた。つらみ。

君の大丈夫になりたい

 

ようやく、「天気の子」をみにいきました。

本当に本当に新海誠作品が好きで、2017年に東京の国立新美術館まで新海誠展を見に行ったのに、公開から2ヶ月経って、ようやく。オタクの腰は重い。

 

結論から言うと、「君の名は。」の方が好きだった。でも「天気の子」がダメという話ではなく、それとこれは全くの別ジャンルとして捉えた方が良いと思います。「君の名は。」のような作品を期待してみると、裏切られた気持ちになるかもしれない。ちょっとなりました。勝手に期待しておいてそれは無いだろという話である。オタクはいつも自分勝手。

 

 

※ネタバレあります

 

 

まず良かったところは、相変わらずの風景の美しさ。一番好きなのは、帆高がフェリーに乗って初めて東京に来たシーン。降りるちょっと前のシーンで、海から東京の夜景がみえる。たぶん予告編でもあったと思うけど、ここがいちばん美しい。ほんと少しの時間のシーンなんだけど。それから、神宮外苑花火大会のシーンだなあ。綺麗すぎて泣いちゃった。作品全体の雨の描写はさすがと言わざるを得ないですね。言の葉の庭を思い出したりもした。

シーン別の好きなところは、帆高が東京に来る前の雨の中自転車で走っているところ、陽菜に東京に来た理由を話して陽菜がそれ以上なにも突っ込まずに頷いていたところ、ホテルで消えかかっている陽菜に指輪を渡してプロポーズしたところ。空から指輪が降ってきたところ。

じゃあ次にいらないなと思った設定。帆高が拳銃を拾って誤って発砲するの、必要だろうか。絶対にいらないと思うのはわたしだけ?そして陽菜が18じゃなくて15歳だっていうのも完全にいらない話で、警察に追われなくてもこの世界の話は成り立ったし、「君の名は。」のように"運命"としてこの出来事が起こったというように話を持っていったほうが感動できたと思う。愛にできることはまだあるかい ではない。まず法に触れないところからはじめてくれ、という気持ち。

地味に感動したのは「君の名は。」の登場人物が東京で生きている描写があったことなんだけど、でもあの"運命"の出来事があったあとに東京が水没ってどうなんだろうとも思いませんか。三葉たちの生活が…!って思っちゃった。瀧くんのおばあちゃんが「江戸はもともと海だった」みたいな話をしていたけど、三葉のおばあちゃんの結びの話のようなありがたさは無くて、もともとこの世界はこうだったって言われても全然美談にならない。そしてなんで東京だけなんだ?という疑問も。設定がよく分からない、小説読めば解決するのかな。

3年間雨が降り続けて、街が水没するっていうのは夢のまた夢のような話な気がするけど、ついこの間東京に行った時台風で 有り得ないくらい雨が降って窓が壊れるんじゃないかというくらい風が吹いていたのを思い出して、これは作り話なのか今後起きることを予想しているのか境界線が曖昧になっていく気持ちだった。神様とかそういうの、結構ほんとうにあったらいいなって思う質だから設定としてはすごく好き。

 

世界はいつものように、昨日と変わらない今日だった。でも自分たちだけは、昨日と全然違う今日を生きていた。本当はみんなそうなのかもしれない、他人には見えなくて自分にだけは見える昨日と違う今日があって最高だったり最悪だったり。そういうことを繰り返して歳をとっていく。まあそういうことにしておきましょうという感じでした。

僕たちはいつか墓となり土に戻るだろう

 

今朝、地震の夢をみた。

 

去年の今頃、震度6の地震が来たのは夢じゃない。たしかあれは午前4時よりちょっと前のことで、大きく揺れ始めた時は夢だと思っていた。

壁にかけていた時計が落ちて時間が止まって、そのあとに停電して、あぁこれは夢ではなかったのかと実感した。

停電したこと以外に困ったことは何一つなくて、いつも通り仕事をしたし、被害の大きかった町で人が亡くなった話はどこか別世界の話に思えた。それなのに数日間は怖くて1人で眠れなかったので犬と寝ていた。

 

それからさらに時間が経って元気になった頃、自転車で駅に行く途中、横から出てきたランクルとぶつかって転んだ。痛くなかったからそのまま仕事に行ったら、着替えてる時にめちゃくちゃ内出血していることに気づいて急に痛くなってきた。

人って簡単に怪我するじゃん!って初めて思った。保険金が出るというので、大した怪我でもなかったけれど3週間病院に通って内服薬と貼付薬をもらった。

健康なのでいつの間にか綺麗に治っていた。

 

地震があって怖かった日があったことも、事故にあって怪我をして痛かった日があったことも、生きていたらすっかり忘れてしまう。あんなに大きな出来事のように感じていたのに。

それと同じところに並べちゃいけないけど、失恋した日に大泣きしてもう生きていけないと思っていたのに、何故か普通に生きてきたし、今年は全然その人のことを考えなくなったし、人ってぜんぜん丈夫じゃん。それに代わりなんていないって思っていても、そのポジションに収まる別人がいるんだから怖い。怖すぎる。

生きていたら数えきれない出来事が起きて、たくさんの人と出会ってそのうちの何人かと親しくなる。一つ一つのことを深く考えているのが馬鹿らしくなってしまう。だけどそれは、今日まで生きていたからだ。明日があるって信じているからだ。

もしかしたら今日食べるご飯が最後で、今日話すことが最後で、聴く音楽が最後で、読む漫画が最後で、煙草に火をつけるのが最後で、目を閉じて眠るのが最後かもしれない。

明日はあるってなんだか分からないけど自信がある。でも1ヶ月後はどうだろうか、というのはいつもある。だからずっと先の約束をするのが苦手だ。

ずっと早く死にたいって思ってる。

なのに、人生は明日終わってもおかしくないのに全然終わる気配がないし、終わらないって思い込んでいる。1ヶ月後も、1年後も生きてしまっているだろうって。ハチャメチャに怒ったり泣いたり喜んだりしても、その感情が薄くなってしまうし、そんな特別な日より普通に仕事をして生活をするだけの日が圧倒的に多いから、未来に楽しみが欲しくなっちゃう。矛盾だらけの人生だ。

どんだけ明日があるか分からない、ひとって簡単に怪我するし死ねるんだって、思い知らされたところで、馬鹿だから信じないんだ。自分にはまだ関係ないって。

アー 明日も、来月も、来年も生きていたい。まだ、死ぬのはもうちょっと先に。まだやりたいことあるし。後悔しない生き方なんてあるのかな、無さそうだな。あの時ああしてればよかったってあと何回後悔するんだろう、大事な時こそ明日はないかもって思いたい。

 

明日は実家の犬に会いに行く。地震の夢をみたから。明日はあるってまた信じてる、ばか。でも人生の諸事情により明日です。

夜間飛行の続きは夢の中

 

3年経ったらこの職場をやめようってずっと、2年前の4月に入った時からずーっと思っていた。やめたらどこへ行くかとか、何をするかとか、そんなことは大して考えてなかった。とにかくこんな町から出ていきたいという一心だった。

オラこんな村いやだ。たすけてください。

それから夢はころころ転がって、看護師を辞めたくなって、わたしは可愛いからカフェの店員さんをやってみたくなって、どうせ出ていくなら中学生の頃から憧れていた東京がいいなと思うようになって、だけどわたしの人生に死って切り離せないんだって気づいて結局看護師は続けることとなった。完全に死に呪われている。

人はやがて死ぬ。

 

 

先日面接を受けた東京の病院の内定が確定した。

 

観光地じゃないところはこれまでも歩いてきたけど、住んだらどう生活するのかって考えて歩いたことは無かった。

ここに住んだらあのお店で買い物をして、勉強するときはここかな、夜中にお腹がすいたらこのお店に来てもいいな、とか。歩いている人の顔は穏やかで、歩行速度はそんなに速くない。セミがうるさい。駅前は喫煙できないんだ、そっちのお店には喫煙席がある。ラーメン屋さんが多い。カレー屋さんがある。隣の駅で降りたらこんな感じなのか。こっちの駅前よりあっちの駅前の方がたのしい。プリクラはここで撮ることができる。

そういう生活の想像の登場人物はわたししかいない。

この街に引っ越してきたら、全員知らねえ人間だった。そうだったなあ。うん、そりゃそうだ。

 

まさか東京に引っ越すことが決まるなんて思いもしなかった。

これまで東京に住みたいなって話していたことが冗談のつもりってわけでもないけど、どうせ自分は北海道から出られない オチなんだろうナァとどこかで思っていた。気軽に転職サイトに登録して、思ったままにこんな所で働きたいんですけどーつって、ぼんやりとした夢を話す感覚でまわりに来年東京イコッカナ〜と思ってて…なんて話をしていたら、あれよあれよと決まってしまった。

自分って小さくて平凡に埋もれる田舎の人間だと思ってたら、どうやら違ったらしい。田舎じゃなくて都会で埋もれる運命になった。わたしが、いいんですか?っていう気持ちで、まだ夢を見ている気分。

でもあんなにおっきい街で、今住んでいるところの人口の倍の倍の倍の……人間たちの中でどうやって生きていくのか見当もつかない。全員他人だと思うと冷や汗が出てくる。わたしの名前を覚えて呼んでくれる人がいるのか、友達はできるのか、彼氏はできるのか、自分の帰る家だって認識できるようになるのか、住人として景色に馴染めるのか。

新しい場所で生活を始める時、どんな感じだったっけ。

同じところにずっと居るのが苦手で、高校も看護学校も知り合いがいないところに行った。いつも知らねえ人間だらけの中で1からやってきた。それでもいつも帰る家はちゃんとあって、変わらないお母さんとお父さんが待っていてくれた。大人になってからは遠くに離れて住む友達が夜中に車を飛ばして会いに来てくれてたり、仕事帰りにいつもの先輩といつもの決まったチェーン店で食べるご飯はなぜか世界で1番美味しかったり、近所の川辺でひとりで飲むお酒も美味しかった。美味しかった話をしたいわけじゃない。もう少し聞いて。

つまり、つまりなんなのかと言うと〜え〜〜っと、ブレない場所というか人というか、そういう所がこれまではあったんだけど、もう無くなるじゃん。怖いな〜って、宇宙に放り出される気持ち。どう考えても北海道のほうが東京より広いし野生動物みんなデカくて怖くて試される大地なんだけど、東京って漠然とした宇宙感ないですか?ブラックホールか??つかまるところないから簡単に吸い込まれるし、ブラックホール出現しなくても無重力だからちょんって押されたらどこまでも飛ばされる。こわすぎ。

なんの話だろうってみんな思い始めてる。

わたしも思う。宇宙は怖い。

そうやって考えながら書いていたら寝ていた。目が覚めなければよかった。今夜はこんなことの繰りかえしだ。そんな夜をこれからも何回も繰り返して年老いていくのか。ふ〜ん、なんのために生まれたのか意味わからん。たぶん東京に引っ越すため。そんなわけはない。でも東京に行く。

東京に引っ越したら、したいことたくさんある。わたし以外知ってる登場人物いないって言ったけどあれ嘘。たのしいことは人に全部は言わない主義。ほとんど書いてみんなに頭の中パカーって見せてるけど、1ミリくらいは内緒にしてる事あるよ。自分だけが知っていたいことだって世の中にはある。きも、独り占めすんな。

このブログのことだって5日経てば何書いていたか忘れる。内緒にしてたらどんどん忘れてしまうような、気がする。声に出したり、文字にしておかないと、忘れる。わすれたら無かったことになるわけじゃないけど、寂しいね。この街のことも引っ越したら忘れていくのだろう。ちょっと寂しいなって思った。

あと213回くらい寝ておきたら東京都民になってる。

おやすみ。

あと212回くらい。忘れながらでも新しいことを知りながら死に向かっていく。