明日が来なければいいのに

今君に素晴らしい世界が見えますか

記憶の話

 

時々自分のInstagramの写真を見返す。

そのほとんどが一人で遊んだ時の写真で、この思い出を共有する人はいない。でもわたしの中にはちゃんとある。写真を見返すと、そういえばこんなこともあったなぁとその日に戻れる。しかし残念なことに見たものや考えたことすべての丸一日を思い出すことは出来ない。

何一つ溢れ落とすことなく、覚えていられたらいいのになぁと思う。

自分の人生の1番古い記憶ってなんだろう?

幼稚園の時のことかな。運動会とかお遊戯会で何をしたのかっていうのは、アルバムや親の撮ったビデオを見たからわかる。でもその日何があったかとかっていうのは覚えていない。思い出せるのは、ただ普通の日で、初めて男の子に泣かされた時のことだ。とてもしょうもないことを覚えているもんだなと思う。

わたしはきっと丁寧に大切に育てられてきた。今ならそういうことがわかるのだ。でも、大切にされてきた小さな頃のことは全然覚えていない。

そういう日が、きっとたくさんある。わたしは覚えていないけど、家族が、友達が、これまで関わったどこかの誰かが、しっかりと覚えていること。

なるべく忘れたくないと強く思う。長く生きればその分だけ脳からこぼれ落ちて忘れていってしまう思い出が増える。だから、できるだけ、忘れたくないことを頭の中で繰り返し繰り返し思い出す。綺麗だと思ったもの、好きだと思ったもの、楽しかった日、辛かった日、美味しかったもの、話したこと、抱いた感情。

写真に撮っておけばよかったと思うこともたくさんある。日記にしておけばよかったと思うこともある。残してなかったから、どんどん細かいことが抜けていって思い出せるものがぼんやりとしていく。あの時間は戻ってこないんだという事実を抱えて、突然死でもしなければあと60年くらい生きなくちゃいけない。今日のことだって60年後には忘れているだろう。

いつか23歳のわたしが大切だと思っている人の名前さえ忘れてしまうのかもしれない。患者さんを見ながら思う。

思い出はいつも綺麗だ。脳がそういうふうに処理をしているのかもしれない。でも覚えていることだけを綺麗にされて、ほかはどうでもいいなんて脳はちょっと冷酷すぎる。

世界五分前仮説をときどき考える。色んなことを思い出したり、その証拠の写真もあるけれど、この状態を何者かが作っていたとしたらどうしよう。わたしが大切だと思っている思い出全てが偽物だったらどうしよう。不安になる。でも職場の人はみんなわたしを知っているし、こないだした約束は守られるし、わたしと同じことをした人は同じことを覚えているから、きっと大丈夫なんだって確認をする。世界は前からあるっていう確認。

記憶だけが頼りだ。思い出はその人の歴史そのものだ。多少脚色の加えられた思い出だとしても、その人をつくりあげたものだと信じている。だから世界五分前仮説が本当だったら嫌だ。

大人になってから忘れたくないことが増えた。20代のうちに思い出をたくさん作って、そしておばあちゃんになる前に、ちゃんと今のことを覚えているうちに死んでしまいたい。もしも29歳最後の夜に死にますか?って聞かれたら、なんて答えるんだろうね。たのしみだね。そもそもそんな都合よく死ぬ事は出来ないし、近い将来にそれが許されるとも思えないけども…。例え話。

若いうちに死にたいとは言っているものの、人は突然思いがけず死ぬ弱い生き物なので、だから思い出を作る作業って大切なのだなと思う。思い出を作るっていうことは、ちゃんとその時を大切にするっていうことでもあるから。ほらあの名曲でも言ってるでしょ、なんでもないようなことが幸せだったと思うって。明日死ぬかもしれないし、来月かもしれないし、もうちょっと先かもしれない。そんなことは誰にも分からない。だから本当は特別な何かがなくても、今日も明日も大切にしなくちゃいけないんだよね本当はね。それってほぼ不可能に近いくらい難しい話だけど。

人は絶対に死ぬ。死んでから後悔しても遅いってことを知るのは、死んでからなのかもしれない。患者さんの家族を見て思ったことですが。

記憶の話から脱線して死の話になってしまった。死と記憶というのは離しがたい部分ではある。死についてはまた別の機会に書きます。こういう話に終わりはないというか、書いていてどこで切るかいつも悩むな。読んでる人がきっとどっと疲れるに違いない。もう少し新書とかを読んで話のまとめ方を学ぼう。実は今年全然本を読んでない、去年40冊くらい読んだのに〜。本のいい所って思い出にしなくていいところだよね、いつでも読み返せるから大事なところ以外はまた確認すればいいわけで、自分の脳の容量を圧迫せずに済む。音楽とか映画とかでもなんでもそうなんだろうけどね。

 

それじゃ記憶の話はおわり。