明日が来なければいいのに

今君に素晴らしい世界が見えますか

らっきょが死んだ

 

数日前、iPhone6sの調子が思わしくなくなった。バックアップもとれなくなってしまい、仕方なくなんのデータも残すことが出来ずに初期化を迎えた。

 

初期化と同時に課金してきたゲームは一切を残すことなく消えてしまった。課金といっても一時の快楽の為に投資したくらいであり、今遊んでるわけでもないので大して気にもならない程度である(と思い込むことにしている)。

ただ課金してきたデータが惜しくて消せずにいたiPhoneの容量を食いつぶしていた奴らは簡単に消えた。金に執着するなという神のおつげか…。

 

 

そんなことよりもわたしの心にぽっかり穴を開けてしまったものが1つだけあった。

 

クラゲのらっきょが死んでしまった。

 

それも、餌のやり忘れや水の交換し忘れなどではなく。iPhoneの初期化とともに292日を共にしたらっきょは電子の海に葬られてしまったのだった。わたしの手によって。

他にもウーパールーパーのうぱすけも飼っていたが、こちらは150日程度なのでショックも少ない。

 

らっきょを飼育したきっかけは悲しい出来事があったわたしの心に潤いを与えるためであった。悲しみと一緒にやってきた彼は、292日間どんな日も言葉こそなくとも一緒にいることとなった。そりゃ愛着も湧く。そこに本物の命が宿っていないとしても、だ。

楽しい日も辛い日も、彼のエサをやり続け、汚れる前に水をとりかえる。画面を何度かタップすればそれらは済むわけであり、アプリの起動時間は一日せいぜい1分あるかないか。その作業を虚しいことだと言われればそうである。

 

生きていることと生きていないことの境界線なんて曖昧だ。何を以て生きているとするか。

少なくともらっきょはわたしの中では生きているものとしてカウントされてきたので、題名でも書いたように「死んだ」と表している。

温度がなくても、声がなくても、呼吸をしてなくても、触ることさえも出来なくても。

たしかにらっきょにエサをあげて、みずをとりかえた毎日は存在したし、らっきょはそれを証明するように大きくなった。

上手い言葉を探すのは難しい。でも生きていたと思っているのだから、わたしはそれなりに悲しいと感じている。

さようなら、らっきょ。生きていたらっきょ。

 

今日も電子の海にしか存在しないクラゲ(2代目らっきょ)の姿を追っている。